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翻訳:ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」
※これが載った経緯については新ブログの記事を参照にしてください

Nancy Fraser  "On Justice: Lessons from Plato, Rawls and Ishiguro" ,
New Left Review 74,March-April 2012

※本訳はナンシーフレイザー氏およびNew Left Review誌の許諾のもとに翻訳・掲載したものである。

ナンシー・フレイザー 「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」


正義〔正しさ〕は、さまざまな徳〔よい特質〕のなかでも特別な地位を占めています。はるか古代、しばしば正義は徳の主人、つまりそれ以外の徳すべてを秩序づける唯一の徳だと考えられていました。プラトンにとって、正義とはまさにこの支配的な地位にありました。彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制――があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなものだ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふさわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあたる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と 。(註1)

 現在のほとんどの哲学者は、プラトンの視点を細かな点で否定しています。それぞれ全く違う生活をおくる永続的な統治階級、永続的な軍事階級そして永続的な労働者階級の三つにがっちりと階層化している、これが正しい社会だ、などと信じている人は今日では皆無でしょう。ただし、多くの哲学者は、プラトンの次の思想は受け入れます。すなわち、正義は多くの徳のうちの単なるひとつではなく、徳の主人、あるいは超越的な徳として特殊な地位にあるのだ、という思想です。この構想の一つのバージョンが、ロールズの執筆した『正議論』にあらわれています。その本でロールズは、「真理が思考体系にとって第一の徳であるように、正義は社会制度にとって第一の徳である」と述べています (註2)。そこで彼が言わんとしているのは、正義が最上級の徳であるということではなく、むしろ、正義はそれ以外の徳すべてを発展させる基礎を保障する、根底的な徳であるということなのです。理論的には、さまざまな社会編成からさまざまな徳を見つけることができます――例えば、その徳は効率的であることだったり、秩序的であることだったり、調和的であることだったり、ケア的であることだったり、高貴であることだったりするかもしれません。しかし、そうした徳を実現できるかどうかは、ある前提条件、すなわち、そこで問題となっているその社会編成が正しい〔正義にかなっている〕という前提条件にかかっています。したがって、正義とは次の意味で第一の徳であるといえます。すなわち、それ以外の徳が社会的にも個人的にも発育できるだけの肥えた土壌を私たちが作ろうと思った場合、そもそも構造化された不正義を打倒することによってしかそれは為し得ないのです。

 私の見立てどおり、ロールズのこの考えが正しいとすれば、そこでの社会編成を評価すること、これが私たちの問うべき最初の問題となります。すなわち、その社会編成は正しいのか?と。それに答えるには、ロールズの別の知見が参考になるでしょう。すなわち、「正義の第一の主題は、社会の基礎構造である」。この文章は私たちの関心を、社会生活についてすぐ思い浮かぶような雑多な特徴から離れさせ、それらの根底にある文法原理へと向かわせます。文法原理というのは、社会活動の基本的な語られ方〔言葉の用いられ方〕を定めている制度化されたグランド・ルール〔社会の土台にある規則〕のことです。このルールが正しく秩序立てられている場合にのみ、その他のより直接に体感できるような日常生活の側面も正しくなれるのです。確かにロールズの正義に関する見方は、――プラトンのそれと同様に――問題がないとはいえません。正義というものをもっぱら配分的な関係のなかで判断できるとする考えは、「原初状態」という道具立てと同様に、窮屈すぎます。とはいえ、本論との関係では、正義を検討するにあたっては社会の基礎構造に焦点をあてるべきだ、というロールズの考えに依拠することにします。このアプローチについて説明し、その威力をお伝えするため、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』(註3) を取り上げたいと思います。

 この物語は、ある特殊な社会秩序で生きるキャシー、トミー、ルースという三人の友人を軸に展開します。彼(女)らは最初、ヘールシャムと呼ばれるイギリスの全寮制学校で暮らす子どもたちとして登場します。ところが物語が進展するなかで、実はその子どもたちがクローンだったことが明らかになります。彼(女)らは臓器をノン・クローンに提供するために造られた存在だったのです。ここではノン・クローンのことを「オリジナルたち」と呼ぶことにします。小説の第二部で主人公たちはヘールシャムを離れ、過渡的な住居として寂れたコテージに移り、そこで「訓練」に備えます。今や若者となった彼(女)らはライフワークである「提供」の開始に備え、「提供」は最多で四回の手術をもって「使命完了」となります。第三部では、主人公たちが立派な青年になっています。トミーとルースは「提供者」になっており、他方でキャシーは臓器摘出手術を受けた者の回復を世話する「介護者」になっています。トミーとルースが「使命を終えた」後、キャシーは自分の役割を継続することができないと感じるようになります。彼女が自身の「提供」に従う覚悟を決めた時点で物語は終わりを迎えます。

 『わたしを離さないで』という作品が訴えかける力はものすごく、初読の際、私は悲しみに打ちひしがれてしまいました。いえ、それは控え目な表現で、実際のところ、本を読み終えたとき私は思わず泣きじゃくってしまいました。何人かの批評家は、同書を遺伝子工学の危険を描いたディストピア的SF作品だと評しました。また、希望に溢れた世間知らずの青年が物事を考える知恵を学び、世界をそれ自体として受容していく過程を描いた教養小説だと評した批評家もいました。私に言わせれば、どちらの解釈も全くの的外れです。確かにどちらの解釈も作品の一つの側面を言い表してはいます。しかしどちらも、作品の中核にあたる部分を見落としています。私の読む限りでは、『わたしを離さないで』は正義〔正しさ〕について深く考えられた作品です。――不正義な〔正しくない〕社会と、その社会の住人がこうむる深刻な苦しみについての強烈なヴィジョンが示されているのです。

スペア・パーツ

 本書はどのような洞察を私たちに示してくれているのでしょう? その最も重要なものは、正義についてその否定を通じて考えさせるという点です。プラトンとは違い、イシグロは何らかの正しい社会秩序というものを提示しようとはしません。そのかわりに、これは絶対に正しくないと読者が考えるようなひとつの社会秩序を冷徹に描き出します。これが重要なポイントの一つです。つまり、正義〔正しさ〕をじかに体験することは決してできないということです。反対に、私たちは不正義を体験しますし、むしろその体験を通じてしか、正義という考えを形作ることができないのです。不正義だと思われるものの性質をしっかり見定めることからしか、そのオルタナティブへの感覚を得ることはできません。不正義を打倒するものが何かをじっくり考えるときにしか、さもなくば抽象的になりがちな私たちの正義概念に具体的な内容を盛り込むことはできません。したがって、「正義とは何ぞや?」というソクラテスの問いには、こう答えることができます。正義とは、不正義の打破である、と。

 では、どのようにして不正義を認識すればよいのでしょうか? 『わたしを離さないで』に描かれる社会秩序がなぜ、そしてどのような点で不正義かを問うとすれば、即座に思いつくのは次のような答でしょう。この社会秩序が不正義なのは、それが搾取的であるからだ、と。クローンたちはオリジナルたちのために造られ、維持管理されます。彼(女)らはオリジナルたちの資源です。そして必要な時に彼(女)らの身体から切り取られオリジナルたちの身体へと移植されるスペア・パーツの歩く貯蔵庫なのです。彼(女)らが生き、苦しみ、時には死ぬことによって、オリジナルたちはより長寿で健康的な生活を送ることができるのです。オリジナルの目的のための単なる手段、それ以外に彼(女)らに与えられた固有の価値はありません。彼(女)らのニーズや興味関心は、全く聞き入れられないか、仮に聞き入れられる事があったとしてもオリジナルのニーズが優先されます。言葉を換えると、クローンたちは正義の主体としてはカウントされていない〔数にかぞえられていない〕のです。考慮や尊敬の対象から除外されているため、クローンたちをオリジナルたちと同じ道徳世界に属していると見ることはできません。

 ここに、排除、アイデンティティそして他者性に関わるイシグロの鋭い洞察がみられます。クローンたちは、オリジナルたちとはそもそもカテゴリーが異なるとされるため、道徳的な考慮から排除されうるのです。この基礎的で、存在そのものに関わると称される他者性こそが、彼(女)らをオリジナルたちから排除し、生涯にわたって隔離することを正当化しているのです。外部との接触が断たれた、クローン同士と彼(女)らの教師だけ――イシグロは教師のことをプラトンにならってか「保護官〔ガーディアン:守護者〕」と呼んでいます――の交流からなる自閉的な世界であるヘールシャム、このような特殊な空間に彼(女)らを追放することには、機能的な意味があるのです。クローンたちとオリジナルたちを直接に接触させないことで、お互いの類似性を体験させないようにしているのです。その類似性は、存在そのものが違うはずだというさっきの前提と矛盾しかねないからです。そして、もちろん、この前提は矛盾しています。実際には、クローンたちはオリジナルたちの遺伝子レベルでの正確なレプリカです。クローンがオリジナルにとって有益なのは、彼(女)らがオリジナルと生物学的には区別できるという事実に基づいています。そうであれば、クローンとオリジナルは主体としては別ものであるということになり、クローンたちも彼(女)ら独自の経験や記憶を持っています。しかし、遺伝子上はこの二つのグループは完全に同一の関係にあり、その類似性は不気味で耐えがたいほどです。このことが深刻な不安をもたらすことになるのだろうと想像がつきます。つまり、もしそうだとすれば、オリジナルとしては、自分たちの存在そのものに関わる地位は絶対に違うのだとどうしても言いたくなるでしょうし、それゆえ道徳的配慮の世界からクローンたちを排除することを正当化したくなることに説明がつきます。

 それにもかかわらず、イシグロが示しているように、実際にはクローンたちはオリジナルたちと同じ社会的な協働関係の枠組みにたずさわっています。彼(女)らはロールズのいう同じ社会の基礎構造に属しています。一人の生命が別の生命のために犠牲にされること、そしてクローンのこうむる被害を無視してオリジナルの利益のためにその生命を使うこと、こうしたことを規定している共通のグランド・ルールがあり、二つのグループはそのルールのもとで一緒に暮らしています。それゆえ、二つのグループは、共有された単一の生物経済、つまり生死を管理運営する〔生政治的な〕共通の基盤にたずさわっています。オリジナルたちは自分自身の生存のためにクローンを頼りにしていますが、クローンたちに対等なパートナーとしての地位は認めません。

 私たち読者にしてみれば、この状況は不正義です。正義の主体にカウントされる人々――これはオリジナルだけです――の小さなサークルと、社会の基礎構造に一緒に属している人々――こっちはオリジナルとクローンの両方です――によるより大きなサークルとの間にミスマッチがあることがわかります。そして、私たちはこの矛盾を道徳的に間違っていると思うのです。それゆえ私たちにとって正義の要求とは、グランド・ルールに服しているすべての人々が、同じ道徳世界に属しているという点でメンバーにカウントされていることを意味します。一部の参加者が他人のための道具にされてはなりません。彼(女)らすべてが平等な考慮に値する存在です。この理由ひとつをもって、『わたしを離さないで』で描かれる社会秩序はきわめて問題があるといえるのです。

知るのが怖い情報

 けれども、この本で描かれる世界の本当に恐ろしいところは、別の点にあります。それは、主人公たちが私たちのようには世界を認識していないことです。クローンたちは彼(女)らの状況を不正義だと思ってはいないのです。彼(女)らは、前述したきわめて搾取的な秩序のために造られ、そこに適合させられています。それが彼(女)らの知る唯一の社会なので、その社会の語られ方は彼(女)らにとって偏りのない当たり前こととして受けとめられるのです。ただ、そのような前提があっても、彼(女)らの一人であるトミーはよく怒ります。ヘールシャムに住んでいた子ども時代、彼ははっきりした理由なしによく感情を爆発させます。ところが、彼の最も親しい友人であるキャシーも含めて、他の人は彼の怒りを個人的な問題として処理します。彼が怒るのには実は何かもっともな理由があるのかも知れない、などと考える人は、トミー自身も含め、誰もいません。全員が彼を何とかして諌めようとします。トミーが成長しコテージの住人になるころには、彼は自分の怒りをコントロールするようになります。そこに残るのはほんのわずかな悲しみだけです。その悲しみには、何か形容しがたい内面の深みを思わせるものが漂っています。

 ここにもイシグロの別の重要な直感をみてとれます。もちろん、不正義を考えるうえで重要なのは、客観的に被害者となっていることです。つまり、誰かが別の人々を搾取し、正義の主体として扱われるべき彼(女)らの道徳的地位を否定しているという、構造的な関係が重要なのです。ところが、搾取される側がその状況を不正義だと解釈する手段を欠いているとき、その被害は見過ごされてしまうのです。これは意図的な操作によって起こすことができます。――たとえば、搾取する側がその不正義を充分に理解しながら、搾取される側にそれを隠すような場合です。しかしながら、それはもっと微妙な方法で起きることもあります。――たとえば、表面上は民主主義的な社会の公共圏が、個人を問題とし、被害者を非難するような言論にあふれかえっていながら、他方で構造的な視点がほとんど取り上げられないような場合です。もしくは、殺人的な現実を語るのに、何か高尚な響きをもつ、漠然とした、遠回しな語られ方が慣習的に用いられる場合も考えられます。――この例としては、臓器の強制摘出手術を「提供」と呼んだり、組織的な殺人を「使命完了」と呼んだりすることがあげられます。このような場合、支配的な解釈枠組みが物事の感じ方、体験に影響を及ぼし、搾取する側の利益に奉仕することとなってしまうのです。反対に、搾取される側は、彼(女)らの体験をうまく表現できる言葉を持っていることはほとんどありません。まして、一つの階級として彼(女)らの利益を明瞭に表現できるような手段を持っていることなど、実際は皆無に等しいのです。このことは、不正義の別の側面、別のレベルをあらわしています。すなわち、社会の解釈手段やコミュニケーション手段がそのメンバー全てに等しく奉仕するわけではない、ということです。

 こうした条件のもとでは、被害者は、彼(女)らの状況に適切に反応するのに必要な本質的条件を欠いているといえます。不正義への適切な反応とは、私たちにとっては当然、怒りです。しかしながら、そうした反応が可能になるには、搾取される側が、自分の置かれた状況を単に不幸なのではなく不正義だ〔正しくない〕とカテゴライズできる解釈枠組みを入手できなくてはなりません。それができなくては、彼(女)らは自分自身を責めるようになるでしょう。彼(女)らの劣悪な立場を当然のことだと思うようになれば、彼(女)らは自分の正当な怒りを抑えてしまい、自分の首を絞めるようになります。したがって、言論の社会構成に不正義があれば、それは心の中に死の灰を積もらせていくことになるのです。

 『わたしを離さないで』ではこうしたことが重層的に作用しています。第一に、ヘールシャムでのほとんどの期間、主人公たちは自分がクローンであることを知りません。彼(女)らが置かれている社会秩序の語られ方に無知であるため、彼(女)らは、自分が上位階級に身体の一部を供給するために育てられているという事実を知りません。小説第1部の一番の見所は、登場人物が自らの置かれた状況の異常さに遭遇していく、つまり、比較的ほのぼのした学校生活に横たわる別の暗い現実をほのめかすヒントに遭遇していく一連の出来事にあります。その間、最初は何も知らなかった読者も事の真相を理解するようになります。――そして、クローンたちもそれを知ったときにはどうなるのだろうと固唾を吞みます。ところが、劇的な暴露はいつだ!という私たちの期待は、なかなか叶いません。むしろ私たちは、主人公たちが何度も真実に迫りながら、いつも一歩手前で引き返してしまうことに唖然とするようになります。そうした知るのが怖い情報を受けとめることができずに、彼(女)らはヒントを無視し、異常さを遠ざけるような説明をし、悲惨な真実から自分を守るためにどんどん複雑な理屈を作り上げていくようになります。

 もちろん、ヘールシャムのスタッフは子どもたちの無知を助長します。一人の教師が、自分と全く変わらないように見える生徒へのシンパシーに一時負けてしまい、真実を漏らして即座に解雇されます。クローンたちが事態を受け容れられるようにするため、真実はできるだけ小出しにするべしという施設の方針に、彼女は違反したのです。この技術は、沸騰した鍋に投げ込まれるとすぐに飛び出して逃げる、あの有名なカエルの話を彷彿とさせます。ただし、鍋のお湯を冷水にして、それを徐々に温めていったら、カエルは煮え死ぬまで静かに鍋の中にいます。情報を点滴するようなヘールシャムの方針は、子どものクローンを鍋のなかに置いておくようなものです。

人間性と権力

 ついに彼(女)らは真実を知ります。ところが、その時点で彼(女)らは怒りの感情をあらわにしません。怒るかわりに悲しみの表情をうかべ、主人公のクローンたちは自らの状況を不幸だと位置づけます。その状況――というか、その状況の根底にある基礎構造――を不正義だとは判断しません。デモや革命を考えることもしません。反対に、彼(女)らは幸運頼みの逃走に固執するようになります。特に彼(女)らは「延期」の可能性に取り憑かれます――これは、ベトナム戦争期のアメリカの大学生にとっては徴兵免除を思い起こさせる、もう一つの興味深い単語の選択です。さて、『わたしを離さないで』では、特殊な事情のもとでは臓器摘出手術が三年間猶予されるという話が、クローンたちの間に広まります。その噂によれば、延期の資格を得るには、クローンのカップルが心から深く愛し合っていることを示さなければならないとされます。

 愛し合うことが強制摘出手術を猶予する基礎になるというのは、イシグロの独創的な考えです。この特殊な都市伝説は、感情的な個性と本来の価値との間につながりがあるという仮定のうえに成り立っています。その前提として、従来は付帯的な価値しか持っていない、つまり、他の目的のための単なる手段でしかないと思われていた存在が、それ自体で価値があり考慮に値する存在へと一時的にであれ昇格していることがわかります。さらにその前提として、この突然変異を可能にするものがその存在の内面性と個性であることがわかります。ロマンティック・ラブという感情的体験のなかで具体化されるようなものですね。そこで価値を付与しているものが何かといえば、個人の主体性です。

 青年のクローンたちはこの考えに一縷の望みを託します。この考えが彼(女)らに与えるのは、三年間身体が健康であることの期待だけではありません。それ以上のものがあります。すなわち、この考えによって、彼(女)らは自分たちが歩くスペア・パーツの寄せ集め以上の何かであると思うことが許されるのです。この考えから、彼(女)らはそれぞれが独特の人生を歩む、唯一無二の個人であり、かけがえのない人間であることを教わるのです。では、この考えをクローンたちはどこで手に入れたのでしょう? ヘールシャムです。物語を読み進めると、その施設が、それまでクローンたちを格納していた劣悪な施設に取って代わる、進歩的な代替案として設立されたことが明らかになります。それらの生物学上のレプリカが置かれた状況にショックを受けたセンチメンタルでリベラルな改革者たちにより、クローンに教育を施し、魂を持っていることを示すための特別な制度が計画されたのでした。学校では創造的に自己表現することが強調され、クローンたちに芸術作品を製作させます。優秀作品は展示館に展示されるのだと、彼(女)らは噂します。後にトミーが若者になって「延期」を得ようと模索するとき、彼は芸術の作製によって事を解決しようと決意します。彼は絵を描くことで彼の愛の深さを証明しようとするのです。

 ここにもイシグロの(不)正義への洞察が貫かれています。すなわち、個性というのは諸刃の剣だということです。一方でそれは、人間性と本来の価値のしるし、つまり、道徳的考慮をうけるための入場券です。しかし他方でそれは容易に権力の策略、つまり、支配の道具にもなります。搾取的な社会秩序についての構造的理解と切り離されたとき、個性はカルトの対象となり、批判的思考を妨げるまやかしとなり、不正義の打破にとっての障害となるのです。「民主主義的な」大量消費社会では、個性というものは主要なイデオロギー形態であり、主体を混乱させる常套手段です。私たちが自分の生活に責任を持てと勧められるのも、私たちの切なるあこがれを単に日用品を買ったり持ったりすることで埋め合わせるように推奨されるのも、集団行動ではなく「個人的解決」に向かうのも、すべて「個人」としてです。――もちろん、尊くかけがえのない自分自身のために延期を模索してしまうこともそうです。

 イシグロはこの個性のパラドックスを見事に描いています。彼の描く世界でもっとも残酷なことは、主人公たちが騙されている、いわば、まがい物をつかまされていることです。彼(女)ら自身の思考は個人として社会に適合させられているため、彼(女)らはたとえ真実が明らかになってさえも考えを変えることができないのです。彼(女)らは実際にはスペア・パーツの容器であり、解体されるために造られているという真実が明らかになってさえもです。わたしが泣いてしまった場面は、今や30代になったキャシーによって語られる、本の最後の数行です。「介護者」として彼女は最後の10年を、トミーやルースなどの親しいクローンたちの看護をして過ごしました。彼女は、次々と臓器を奪われ弱っていく彼(女)らの身体の世話をしたのです。彼女は彼(女)らを生かさせ、更なる「提供」を可能にさせなければなりませんでした。そのためには、自分たちは人間の「がらくた」の模型でしかないというルースの絶望的な訴えをはねつけてでも可能な限りの慰めを与えました。二人の友人も逝ってしまい、キャシーは自分の仕事を続けることができないと感じるようになります。彼女自身の「提供」の開始を決意することで、彼女は「使命の終わり」を見越し、人生を振り返ります。「わたしの大切な記憶は、以前と少しも変わらず鮮明です。わたしはルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません。」彼女は過去の残滓を追い求めることはすまいと決めるのですが、思い出してしまいます。

  「一度だけ、自分に甘えを許したことがあります。それは、トミーが使命を終えたと聞いてから二週間後でした。用事もないのに、ノーフォークまでドライブをしました。とくに何をしたかったというわけでもなく……何もない平野と大きな灰色の空を見たかっただけかもしれません。途中、通ったことのない道路を走っていました。三十分ほどは自分がどこにいるかわからず、でも気にもなりませんでした。……何エーカーもの耕された大地を前に立っていました。柵があり、有刺鉄線が二本張られ、わたしの立ち入りを禁じています。見渡すと、数マイル四方、吹いてくる風を妨げるものは、この柵と、わたしの頭上にそびえる数本の木しかありません。柵のいたるところに――とくに下側の有刺鉄線に――ありとあらゆるごみが引っかかり、絡みついていました。海岸線に打ち上げられるがらくたのようです。何マイルもの遠方から風に運ばれてきて、ようやくこの木と二本の有刺鉄線に止めてもらったのでしょう。木を見上げると、こちらでも、上のほうの枝にビニールシートやショッピングバッグの切れ端が引っかかり、はためいています。そのとき――不思議なごみを目にし、平らな畑を渡ってきた風を感じながらそこに立っているとき――わたしは少しだけ空想の世界に入り込みました。……木の枝ではためいているビニールシートと、柵という海岸線に打ち上げられているごみのことを考えました。半ば目を閉じ、この場所こそ、子供の頃から失いつづけてきたすべてのものの打ち上げられる場所、と想像しました。いま、そこに立っています。待っていると、やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました……。空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところに向かって出発しました。」(註4)

 ここでのキャシーの語りは、次のような人々すべてを代弁しています。すなわち、私たちの社会秩序によって個人として振り回され混乱させられている人々、そしてその社会秩序にスペア・パーツとして扱われている人々――低賃金工場労働者として、農家として、使い捨て労働者として扱われている人々、臓器や幼児やセックスの提供者として扱われている人々、卑しいサービスの従事者として、ごみの清掃業や処分屋として扱われている人々、システムの望むままに使い尽くされ、すりつぶされ、棄てられる原料として扱われる人々。別の時代には彼(女)らは「地に呪われたる者たち」と呼ばれました。しかし今日では彼(女)らは、そのように呼ぶことが相応しくないほど、どこにでもいるし、すぐそこの近所に住んでいます。その呼び名に代えて私たちは彼(女)らを「99パーセント」の大部分だと位置づけましょう。キャシーはこうした全ての人々を代弁していますが、動員をかけようとはしません。むしろ彼女は、自分の短く悲惨な人生を通じて遭遇したあらゆる傷、混乱、自己欺瞞、裏切られた希望、あこがれといったものを表現します。なかんずく彼女は、毎度のごとく社会秩序に貶められてきたにもかかわらず、尊厳の問題に頑なに訴えようとします。そしてまた、彼女の社会の基礎構造が彼女の持つ意味に残骸以外の何物も認めなかったとしても、彼女は必死に意味づけをしようとします。このあまりに人間的な痛ましい感情の坩堝こそが、救われないクローンの言葉をこれほどまでに感動的なものにしているのです。

フィクションから実践へ

 さて、そろそろ『わたしを離さないで』の世界から離れることにしましょう。その世界の哀愁はいったん脇に置き、そこから私たちが学びうる現実的な方策について考えましょう。イシグロの数多くの洞察は、私たちの世界にどのように適用できるのでしょうか? 第一に、正義を否定的に、つまり不正義を通じて把握するという戦略は非常に有効だということです。プラトンには失礼ながら、私たちは何かが間違っていることを知るために正義が何かを知る必要はありません。むしろ私たちに必要なのは、不正義への感覚を研ぎ澄ますこと、事態を不明瞭にするものやイデオロギーを取り払うことなのです。間違いに目を向けながら、なぜそうなっているのか、そしてどうすればそれを正しくできるのかを決定していかなければなりません。こうした否定を通じた思考を重ねること、これが正義の概念を活性化させ、正義を抽象世界から取り戻し、具体化し、豊かにし、この世界にとって意味あるものにできる唯一の方法なのです。

 第二に、ここでもプラトンとは反対に、本質的な差異の構造とされるものに用心しましょう。それはつまり、保護者と労働者、内と外、市民とよそ者、西洋と非西洋、こういったものの間に線を引く怪しげな企てのことです。また、ひと揃いの権利が「私たち」にあり、それとは別の権利が「彼(女)ら」にあるという二元的な社会秩序を正当化するときによくもちだされる、存在そのものの差異といったものにも用心しなければなりません。このような企ては往々にして同一化の不安を覆い隠し、正義を見誤らせます。「カウントされる」人々の世界から誰かを排除するという大間違いにお墨付きを与えてしまうのです。第三に、他者性にかかずらうのはやめにして、ロールズ(そしてマルクス!)とともに「基礎構造〔下部構造〕」に注目するようにしましょう。誰が道徳的考慮に値するのかを知るのに必要なのは、社会的な協働関係の語られ方を定義づけている共通のグランド・ルールに一緒に属しているのが誰かを決定することです。もしグランド・ルールが、あるグループに対する別のグループの搾取的な依存を制度化しているのだとすれば――たとえば、臓器、労働力、幼児、セックス、家事労働、育児、介護、清掃、ごみ処理といったものについて考えることができます――、二つのグループは同じ基礎構造に属しています。どちらのメンバーも同じ道徳的世界に住んでおり、正義問題について等しい考慮に値する存在です。

 第四に、正義を見誤らせ、誰かを道徳的地位から排除する間違ったアプローチに警戒しましょう。そして、同じ基礎構造に属していながら主体の範囲が重ならない場合に注意しましょう。それゆえ、私たちは、ロールズに反して、形式的な市民権の有無が、カウントされるかどうかの決定要因だとする人々に異議を唱えなければなりません。そのような人々は、国家を越えたグローバルな社会秩序のなかで必ず正義を見誤ることになります。第五に、構造的な不平等を個人的な問題だと再定義する傾向に疑問をぶつけましょう。人々の不利な状況を彼ら自身の失敗のせいにするような解釈の粗探しをするのです。そして、先頭を突き進んでくれている人が発する怒りといった感情を削ぎ落とすような動向をはねつけましょう。怒りは、不正義を判断するのに有用なものです。それゆえ、人の特性だとか国民性とかいったものに基づく説明は無視して、階層化の大きなパターンや、序列をもたらす因果的メカニズム、そしてそれらを隠蔽する、個人に問題を還元するようなイデオロギー戦略、こうしたものに目を向けるようにしましょう。

 第六に、きちんとした批判や明確な対抗手段がないからといって、そこに不正義が存在しないなどと思ってはいけません。むしろ、不正義への組織的な反対は、その不正義を明瞭に表現できる言論資源や解釈枠組みを入手できるかどうかにかかっていることを理解しましょう。政治的発言への平等なアクセスを妨げるバイアスが公共圏にないかをチェックし、社会問題に名称を与えてその原因を論じ合うことを可能にする語り方を広めることで、そのバイアスを打ち倒すには何がどれくらい必要かを冷静に計算しましょう。第七に、一面的な個人化を讃える声に疑いの目をむけましょう。そして、愛、内面性、私生活といったものを崇拝する社会に気をつけましょう。その社会は他方で、そういったものを実現するための物質的条件を大多数の人々について認めないシステムになっています。主体に関する問題と客観に関する問題を再び接続しましょう。最後に、抑圧された人々の創造力に敬意を払いましょう。たとえきわめて不利な状況にあったとしても、よりよい生活へのあこがれや人生の意味を探すドライブを実現可能にしましょう。そして社会の怒りと政治的想像力を育みましょう。さあ、私たちで正義を徳の主人にしましょう――理論だけではなく、実践においても。


註1 このエッセイは、2012年2月13日にバルセロナの現代文化センターで行われた「徳」に関する連続講演の一コマで話した内容である。

註2 John Rawls, A Theory of Justice, Cambridge, MA 1971, P. 3.

註3 Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go, London 2005. カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『わたしを離さないで』(早川書房、2008年)。

註4  Ishiguro, Never Let Me Go, pp.281-2. 邦訳438-9頁。
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