2015.08.18 Tuesday
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
| - | | - | - |
CALENDAR
LINKS
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
PROFILE
MOBILE
OTHERS
|
fuf blog
「フリーターユニオン福岡」のブログ
2006.07.09 Sunday
山谷 やられたらやりかえせ
『山谷 やられたらやりかえせ』(とりあえず何か書いとこう感想文)
この映画は「ドキュメンタリー映画」ではない。そのようなジャンルで括ってしまうと「戦う下層労働者」「虐げられた朝鮮人労務者」が物語の主人公として全面に見えてくるだろう。もちろんそういう要素もあるだろうが、そのような平凡な「政治的主題」を見るだけではつまらない。 この映画には何よりも、佐藤満夫と山岡強一という二人の監督が、自らが振り回されている状況の真っ只中から世界を捉えるために、世界を映画によって構成しようとする意思の力が刻まれていると思う。そしてその刻まれた力ゆえに、映画自体が人を振り回す力を持っているのだろう。くだらない政治党派がこの映画の上映運動に反対していることすらも、そのような映画の影響力を物語っているだろう。 監督自身が日雇い労働運動の現場で振り回され、今度は状況を捉えようとする監督の意思にカメラが振り回されている。文字通り、カメラは東京の山谷から筑豊の朝鮮人墓地にいたる経路を振り回されている。はっきりいえばこの映画の構成は「強引」ですらある。 志半ばで右翼暴力団の凶刃に倒れた佐藤満夫は、本来、花岡事件などを題材に北へ向かうシナリオを描いていたようであるが、それを受け継いだ山岡強一は視線を逆転させ、どうしても筑豊をとらなければならなかった。それほど九州という土地が、日本の近代(日本資本主義)を問う上で持っている意味の、重さは強烈なのである。 いま僕は谷川雁論を準備していて、ふと思うわけだが、彼の「東京へゆくな」という呼びかけは、日本資本主義が含む亀裂と暴力を忘れるなというメッセージとしてあると思うのだが、その呼びかけに、東京の側から答えた文化表現というのは多くはないのではないか。 そして、いま、日本資本主義の現実に振り回されながら、状況に亀裂を、敵対性を見出し、一発の贈与を与えてやらなければならないのは、フリーターや派遣社員などの流動的労働者層だろう…。 この映画を観た後の強烈な印象は、固まらないままだが…ともかく、この映画を約15年ぶりに九州で(しっかりフィルムで)上映できたことの意義は大きかった。今後のここ九州でこそ、この映画の上映運動の命脈が保たれることを願うし、まだまだこの映画のアクチュアリティーは失われていない。資本主義国家廃絶の日まで、この映画が歴史化されることはない。 2006.07.08 Saturday
【上映会】山谷 やられたらやりかえせ
フィルムそのものに刻まれた戦いが、凡百の「政治的」ドキュメンタリー映画を越える異光を放つ奇跡的な作品。製作後30年を経てなおその生命力は失われず、東京の日雇い労働者を扱ったこの作品の持つ普遍的な力は、パリ、ニューヨークでも上映会を成功させた。
資本主義が新たな力で労働と生を押しつぶしつつある現在、この映画は新たな意義を獲得している。 山岡さんが映画『山谷 やられたらやりかえせ』で描いたのは、この国の資本主義が社会の下の方から労働力を乱暴に引き抜き、むりやり循環させ、そして用がなくなると地面の下に再び埋めて捨てていく、その東アジア・スケールでの歴史と地勢が動く残酷な姿だったと思います。地層の奥深く埋め込まれたそうした葬列を引き出し、いわば人間の骨たちに自らの口で語らせる。ここには、実証的な歴史批判としての社会的ドキュメンタリーという以上の、何かした憑依に似た語り口さえ感じます。/筑豊のボタ山に捨てられた朝鮮人たちの名も刻まれていない石だけの墓を前に、かすかに震える山岡さんの声音が銀幕から聴き取れる。 <上映> 7月1日(土)&2日(日) 15:00〜17:00 ふくふくプラザ・視聴覚室 7月1日(土) 上映終了後18:00〜 関連懇談会 ―「山谷」上映委をむかえて― ふくふくプラザ・501研修室 |