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「フリーターユニオン福岡」のブログ
2006.11.10 Friday
学習会@art space tetra
昨夜はアート・スペース・テトラにてfnf学習会。報告を担当した。マルクス御大〜68年以降の日本の政治/社会運動史の思想的意味〜ドゥルーズ&ガタリの哲学…と、ザザッと適当なラインを辿りつつ、労働を政治化することの様々な可能性について語りたかった。確実に風呂敷を広げすぎたなぁ…。
あんな妙な場を用意してくれたテトラに感謝。fnfの面々もそれなりに楽しんだり、退屈したり、キレたり(笑)していたようだし。僕は非常に満足です。 政治とアートが当然のように結びつくこと(いや、それらは結びつく以前に同じものですらありうること?)の面白さをテトラのE氏とちょくちょく話してきた。まずは一種の政治運動体であるfnfとアート・スペース・テトラの出会いの場を設定して、その可能性を物凄く愚直に実践しようとした…少なくともそのきっかけをつかもうとしたわけだけども、なかなか難しい。僕自身が大学院で蓄積してきた中途半端なアカデミヅムや学術用語などが、もっとシンプルに分かるはずのことを分かり難くしている面は大いにあるかもしれない。「誰にでも分かる話」なんてのも絶対嘘だと思うが、とにかくもっと自由に話せるようになりたいものだ。 アートと政治…それらが「いかに繋がりうるか」を知ろうとすることよりも、繋がらざるをえない仕掛けを作ったほうがいい。しかし、無理に繋げようとする以外に、そういう「場」の具体的なあり方を構想すること自体が簡単なことではない…いや、そんなゴチャゴチャ言うこともないのかもしれない。もっとシンプルに、場に関わる人間がしたいことを提案しあって、協力を求め合って、議論して、というプロセスこそ重要。そのような場が成立するためには、その場に参加する各自にはある種のアナキスティックな(?)自律のようなものが必要だと漠然と感じている昨今。「自己責任」論などに親和的な腐れきった個人主義ではなくて、他者と協働するための倫理としての個人主義…とでもいえばいいのか。 とにかくゴニョゴニョやりながら、面白い場を作りたい。まずは僕らのfnfの運動がテトラに負けない力を持つことが必要だ。…ってのもなんだかD&Gのいうところの「モル的」な発想でよくないか(?)ま、いいや。ボチボチ分子革命起こそう。 2006.11.03 Friday
11月9日fnf学習会@art space tetra
「労働/欲望/生産を新たに語りなおすために」報告:小野俊彦(フリーター・ネットワーク・ふくおか(fnf))
11月9日19:00〜@art space tetra 「消費者」という名の陰で搾取される労働力…あるいはせいぜい「納税者」や「有権者」たちの無駄話がはびこるこの社会。「労働者」はどこへ行った?労働者…それは確かに手垢のついた言葉だが、労働者として生き、語ることの意味を、頑固に、反時代的に問うことで、少なくとも僕らの生が、どのような力によって翻弄されているのかを知りたい。僕らが真に新しいことや<出来事>の可能な社会を生み出すとき、もはや「労働」は既存の「労働」ではなくなるはずだ。同時に僕らは「自由」を問い続ける。「労働」が「労働」として成立させられた歴史的な文脈を超えて、生産や欲望とともに労働を語りなおすこと、私たちがすでに知っている労働/生産/欲望が、私たちのまだ知らない何かに新たに組み直される可能性こそ自由にかかわるからだ。さしあたり、ドゥルーズ&ガタリの欲望/生産論、その資本主義批判を大きな手がかりとして、現在の新たな労働/運動=資本制に対する抵抗のヒントを得たい。 |