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[通信掲載記事]派遣切りに思うこと
fuf通信に掲載した組合員の記事を転載します。
fufの通信を読んでみたい方は気軽に連絡を!

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私はいわゆるフリーターである。私は在学中に就職活動をしないまま卒業し、アルバイト生活を始めた。私にとって会社との距離を適度にとることのできるこの働き方はとても合っていた。人並みの収入を望んだことはなかった。勤め先で「きちんと就職をしなければ駄目だ」、「正社員とフリーターの生涯賃金の差は大きい」と言われるのはいつものことであった。しかし私が自分の労働者としてのこの生き方を変えようと思うことはなかった。私は自分が最低限の生活ができて、無理なく働くことができればそれで十分だったのである。

しかし、私がそうしたフリーター生活を続けていく上で壁となるものがあった。一つは年齢とともに求人が減少していくこと、もう一つはこうした働き方をする私に批判的な見方をする周囲の存在であった。まだfufと出会う前の私は次第に追い詰められ、孤立していった。そして仕事からも社会からも徐々に遠ざかっていった。

その後、断続的なひきこもり、ニートの時期を経てfufにつながった私は気力を取り戻し、再び以前と同様のフリーター生活を始めた。そして時期を同じくして世の中では派遣切りが始まったのである。

現在私は直接雇用のアルバイトを二つ掛け持ちすることで生計を立てている。以前の働き方も同様であった。そのため派遣切りの影響を幸いにも受けてはいない。そして何よりも今は周囲の私に対する見方が違っている。以前ならば私のような働き方に対しては批判的な見方しかされなかったのであるが、派遣切りに見られる雇用情勢の悪化によってそうでもなくなっていた。それどころか、「厳しい雇用情勢の中、こうして働けてよかったね。」と言われることすらある。私の働き方は以前と何も変わらない。

ところで、今回の雇用情勢の悪化を受けて緊急雇用対策が講じられ始めたが、これによって私が抱えている年齢による求人の減少という問題にも道が開かれる可能性が出てきた。思うに、派遣切り以前にすでに様々な労働問題が存在していて、それらはこれまで置き去りにされていた。しかし今回の派遣切りに見られる雇用情勢の悪化を受けてそれらに光が当てられ、ようやく救済の手が差し伸べられ始めたように感じている。

今回の派遣切りによって多くの労働者が正社員を希望していると思う。もちろんそう望む人が正社員になれることは大切なことだと思う。しかしまた同時に、正社員でなくとも安心して生きていける社会であれば、多くの人がもっと幸せに生きられると思っている。それは今も昔も変わらぬ私の思いである。
(孟宗竹)
| - | 12:02 | - | - |
映画『フツーの仕事がしたい』
フツーの仕事がしたい

たとえば第二次世界大戦前、人々は労働者が貧困や資本家に抗って立ち上がる姿を絵画の中に見て、そこにみずからの歴史的主体性を重ね写しにした(社会主義リアリズム)。その同じ視線は、やがて「戦争画」というジャンルに吸収される。人々は、「見る」という実践自体を何ら変えることなく、今度はアジアを蹂躙する皇国軍隊の「勇姿」に自らの歴史的主体を重ね見た。

人々は「観る」ことを通じて、ある種の歴史的主体として(国民として)創られる。僕たちが映画(写真〜動画)というテクノロジー自体が持つ政治性には全く鈍感なまま、イデオロギーを越えたところにある根底的な主体性を取り戻すことを忘れるとき、テクノロジーはある政治的な目的(イデオロギー)に奉仕する主体として僕たちをすでに作り上げてしまっている。僕たちは、「観る」という身体的行為すらも巻き込むようなレベルの「政治」において、かつて人々が「戦争画」に足元をすくわれたのと同じことを繰り返すのだろうか…。少なくとも映画作家たるもの、そういうことについて全く反省していない(としか思えない)のは、ちょっとヒドい。

現実自体が余りにも不透明な時に、余りにも透明に意味を了解できてしまう映画とは一体何なのだろうか。「リンゴの歌」をもう一度流行らせようとでもいうのか。たしかに人々の「眼」は、街頭テレビで力道山を観ていた頃と何ひとつ変化していないのかもしれないが、そこで映画はどんな政治性を持つべきなのか。僕はこの「フツーの仕事がしたい」という映画について、それが極めて限定的な目的に奉仕するだけならばともかく、不特定多数の観客の感情を動員する道具として機能するとしたら、そんなものには全く信用がおけないどころか、ある種の敵ではないかとすら思う。馬鹿げたような明白なことだが、僕たちはあの映画の主人公ではないし、あの主人公の直面した現実を目の前で見ているのでもない。その差と、それを埋める何かについて、あの映画は「見せる」というテクノロジーのレベルでは何の問いも介在させずに(むしろ単にそのような問いを排除するというレベルでのみ「ドキュメンタリー」に徹しようとしており)、僕たちが「見る」ことで主人公と同一化、共感するということ自体がどういう「政治」なのか、については何の反省的考察もない。しまいには自分(映画作家)と主人公を安易に同一化させて終わる…。これがこの作家のせめてもの作家性なのか?まさか!

主人公と作家と観客がスムーズに交換する貨幣たる「労働者階級」という概念自体は、この映画においては何ら問い、模索するべき対象ではなく、与えられた条件だ。そんな非力な思想で、最後に「団結権」などを賞揚したところで極めつけに虚しい。本当にものを考えているのかと言いたくなる。プロパガンダならばもっと高級で目の覚めるようなプロパガンダを!

僕は、現代思想とかメディア論好きの消費者ではなく、労働運動を実践しているか、その傍で行動しつつある人間にとってこそ、こういう理論的問いも含む格闘が急務だと思っている。こんな社民党と共産党が涎をたらして喜ぶような、いや、麻生だって小泉だって憤慨して涙すら落とすかもしれないような映画は肥えだめに落ちろ!

この映画は「21世紀の「リアル蟹工船」」と銘打っていますが、僕のこの映画に対する違和感は小説「蟹工船」に対するものともちろん同質です。(ono)
| - | 23:10 | - | - |
通信に重大なミスがありました
先日私たちは新たな通信を発行し、発送を終えたところで、通信に寄稿していただいた大澤信亮さんの所属が「fuf」とされている箇所を発見しました。もちろん大澤さんはfufの組合員でも賛助会員でもありません。大澤さんは批評家、小説家として活躍されており、有限責任事業組合フリーターズフリー(雑誌『フリーターズフリー』を発行)の組合員、雑誌『ロスジェネ』の編集委員などをしておられます。このような個人の活動の基盤、信条にすら関わりかねない重要な部分の誤記について、関係者一同の不注意をお詫びし、謹んで訂正させていただきます。大澤さん、本当に申し訳ありませんでした。
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