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「フリーターユニオン福岡」のブログ
2015.05.08 Friday
翻訳:黄之鋒「行進する学民思潮」
行進する学民思潮 Scholarism On The March2015年03月 - 黄之鋒 訳:芦原省一 原文:http://newleftreview.org/II/92/joshua-wong-scholarism-on-the-march 訳者コメント:「New Left Review」誌 92 MAR/APR 2015に掲載された、黄之鋒のインタビュー記事(NLR誌了承済み)。黄之鋒は、昨年二〇一四年のいわゆる「雨傘革命」の中心人物の一人と見なされている。 ――ご家族のバックグラウンドについて、語ってもらえますか? 私の両親は香港へ、そのほとんどが公営住宅や村落に住む下層階級の出身として、やって来ました。しかし、両親は、献身的に学習に取り組み、試験でも良い成績を残して、香港大学に入学しました。学位を得て、彼らはミドルクラスの職を探すことが可能になったのです。私の父はIT企業に勤め、母はカウンセリングの仕事をしていました。そういうわけで、私は、典型的な香港の中産階級で育ちました。 私は、香港返還の前年となる一九九六年に、生まれました。私の両親はキリスト者で、私は、クリスチャン・スクールに通いました。香港の文化はとても保守的で、個人の成功を基盤とする通念がありました。一度、教師に、「私たちはいったいどうすることで社会に貢献できるのでしょうか?」と訊ねると、彼女はクラスでこう言いました。「あなたが多国籍企業に入って、お金持ちになれば、貧しい人々に寄付することができる」。実に、典型的な見解というものです。 ――ご家族のキリスト者としてのバックグラウンドや、ご家族が教会に属していることが、あなたの人生にどのような影響を与えましたか? 私の家族は、香港の基督教香港崇真会に所属しています。教会の宗派は、重要ではありません。なぜなら、香港の人々は、神学的な理由で教会への所属を選ばないからです。私の両親がこの教会に通っているのは、家から近かったからです。その結果、私も協会の関連施設である幼稚園に通っていました。私は、三歳になって教会に通うようになりました。 キリスト教は、もっとも力がある存在は神である、と私に教えてくれました。どんな人間も他の人間に対して超越的な力を持ちえないこと、原罪があるために、どんな人間も完璧ではないことも教えてくれました。官僚や政治家の多くも、キリスト者です。ですので、宗教は、全ての人に同じ影響を及ぼすわけではありません。私にとってキリスト教の教えは、独りで住んでいる年配の人々を気にかけることなど、社会的正義の問題に関わるための良い基盤となっています。 それに加えて、私は、映画『中国のイエスキリスト』を観ました。小学校にいたその時から、共産主義政権下で宗教的自由を得るのは非常に難しいことに気付き、限りのある物質的なものは、私たちの人生の目標ではないことを知りました。むしろ、私たちは、価値や信条のために、自らを犠牲にする覚悟をすべきなのです。 それにまた、教会は、私の組織運営能力にも、大きな影響を及ぼしました。毎年クリスマスとイースターには、パーティーやショウ、班単位での活動など、大規模な活動がありました。高校生だった頃、聖書のクラスで中学生を指導しなければなりませんでした。小さなグループやゲームをどのように率いるかを、演説と同じくらい学びました。私は、そうした技術を、教会の活動に関わることによって得たのです。数百人の高校生か大学生が教会にいて、千人ほどしかメンバーがいないということが、よくありました。なぜなら教会は中西区にあって、「有名校」と呼ばれるものが、密集している地域だったからです。 ――いつ、どうやって政治化したのですか? 一四歳の時、中国と結ぶ高速鉄道に対する反対運動がありました。それは二〇〇九年から二〇一〇年のことで、それに興味を抱いたのです。ニュースを読み、インターネットでの議論を追い掛けましたが、その時の私は観察者であって、参加者ではありませんでした。転機となったのは、二〇一一年の春に、「徳育及び国民教育」を、二年後に学校のカリキュラムに導入するという発表があった時です。六月に、私はこれと闘うために、すぐに「学民思潮」と呼ぶことになる組織を、数人の友だちと創設しました。私たちはアマチュアっぽいやり方で、鉄道の駅でそれに反対するビラを配ることから始めました。しかし、すぐに反応が現れ、反対の世論が形成されました。この時に、香港史上初めて中学生が、活発に政治に関わることになったのです。 私たちは、新しいカリキュラムに反対していました。なぜなら、それは中国共産党を「進歩的で、無私の団結した組織」と見なして、私たちに教義を吹き込むものだったからです。中学生たちは、このような種類の洗脳を望んでいませんでした。しかし、彼らはまた、既に重荷となっている教科に加えて、どのような種類の追加カリキュラムも、望んでいなかったのです。そういうわけで、「徳育及び国民教育」の中身をよく知らない学生たちさえ、それには反対していました。そうして、大規模なデモが組織化されたのです。 ――反応の速さと規模には、驚きましたか? ええ。学民思潮が始まってから三ヵ月後、私たちは、プログラムの撤回を求める請願を組織しました。二〇〇名からなるボランティアのチームが、一〇番街の駅の外に立って、一日に六時から八時間、三〇度の暑さの中で、署名を集めました。一〇日間で、一〇万人もの人が請願書に署名してくれました。当初、学民思潮に注目するメディアはありませんでしたし、教職員組合すら私たちのことを気にとめてはいませんでした。ですが、それも短期間のうちに変わりました。特に、私が多くのマイクを前にして、テレビのインタビューに応じてからは、そうでした。私たちの目的からすると、いくぶん政治的なパーティーめいたこうした出来事は、香港の一般の人々からも支持を得ました。 ――学民思潮は、チュニジアとエジプトでの「アラブの春」と、その秋の「ウォール街占拠」の間、二〇一一年六月に生まれましたね。これらの運動は、あなたに影響を与えましたか? いいえ。それらの出来事は、私に影響を及ぼしませんでした。そうした人々のことは気付いていましたが、彼らの要求と方法は反国民教育運動とは異なるものだったので、私たちの政治的な想像力の一部とはなっていません。二〇一一年、香港の一般大衆は「市民的不服従」の意味を理解していませんでしたし、私たちは「アラブの春」や「ウォール街を占拠せよ」にも、興味を持っていませんでした。学民思潮が最初に創設された時、私たちが考えていたのは、単に街でビラを配ろうということだけです。 ――二〇一二年三月には、梁振英が香港特別行政区長官に選ばれましたね。運動への影響はありましたか? ええ。選挙は、香港の非民主主的な体制を、大げさに演出したものと言えました。有力候補の二人はどちらも百万長者で、二人の間にはわずか一二〇〇票差しかありませんでした。梁は最後の票を北京から得たのです。それに、二人のうちでも悪い候補だ――ずる賢くて無慈悲だ――と広く見なされていました。それにまた、中国共産党それ自身の秘密のメンバーだとも考えられていました。彼の当選は、疑いもなく多くの不安と怒りを呼び起こしました。それはオフィスでの彼の実績を確認しただけだったのです。民衆の雰囲気は、おかげでラディカルなものとなりました。 二〇一二年の七月には、種々様々な民衆団体や市民団体を統一した巨大なデモが、国民教育法の撤回を要求して、行われました。政府は耳を傾けませんでした。そこで、九月にはあらゆる路地を抗議者たちが埋め、私たちは直接行動を起こしたのです。一二〇万人もの人々が結集して、香港政府に対して抗議しました。私たちのメンバーのうち三人は、向かい側の公園でハンガーストライキを行いました。九月の中旬には、香港特別区立法会の選挙が予定されており、ハンガーストライキの二四時間後でした。政府は屈服し、予定を保留したのです。 ――あなたはその時わずか一五歳で、この巨大な民衆運度を率いていましたね。政治的な教育を受けた経験が、あなたをそうさせたのですか?それとも本を読んだり、パンフレットを読んだりしたことが? 四年前には、私は全く本というものを読みませんでした。他の香港のティーンエイジャーと同様に、ただコンピューター・ゲームをしていました。私は、政治をオンラインで学んだのです。活動家の議論を追い、異なる民主派の政党が効果的な反対派を組織化するのに、失敗するのを観ていました。フェイスブックが私の図書館だと言ってもいいでしょう。王丹の著作を読むのが好きですね。台湾に行った時に会ったことがあるのです。 ――一九八九年の学生蜂起は、どの程度、今日の民衆運動の背景となっているのでしょうか?二五年後の今、六月四日の天安門事件に対する、民衆規模の追憶はありますか? ええ、確かに。六月四日の記憶は、今でも生きています。ですが、その政治的意味を過大評価してはいけません。ろうそくを灯した寝ずの番は、儀式のようなものになりました。それは、彼らの起こした行動への連帯と言うよりも、一九八九年の犠牲者たちへの感情的な追悼の念に、強く動かされているのです。香港政府の前の公園でハンガーストライキをしている三人に対しても、同じような反応が得られると思います。全く同じ「学生たちを守れ!」という叫びです。それは大人が若い人々を守るべきだという信念なのです。ですが実際には、私たちが彼らを守っているのです。その逆ではありません。 ――学民思潮の次の一歩はなんでしょうか?政府に徳育と国民教育を諦めさせたその後は? カリキュラムは、引っ込められました。しかし、その隠された企図――中国共産党の香港における影響力を、ビジネス、メディア、教育に広げること――はまだそうではないことは、一目瞭然です。もし、私たちが行動を起こさなければ、再び蘇ることでしょう。それを止めるには、立法会での直接選挙が必要となるでしょうし、全ての市民に、行政長官を選ぶ権利が与えられなければなりません。そういうわけで、私たちはこの二つの要求をとりまとめたのです。 ――この政治運動を立ち上げたことに対して、成功する見込みをどう見ていますか?北京に対して、伝統的な一線を越えたことを? ええ、もちろん前もって勝算を計算できたわけではありません。それに、民主派が、ハードルを低くすることも知っていました。基本的に、彼らの要求は、行政長官を選ぶ際には、全ての人が同じ一票であるべきだという、選挙に対して必要最低限のものでした。彼らは闘争を起こす度に、いつも負けてばかりいて、悲観的になっていたのです。彼らは、非常に限られた望みしか、持っていませんでした。 しかし、私は自分の経験に基づいて、楽観的だったのです。大きな勝利を収めたと感じていたし、次の目標を定めるべきだと思っていたのです。行政長官に直接投票する権利だけではなく、候補者を直接選ぶ権利です。民主派は、そんなこと不可能だと見なしていました。二〇一三年の初頭に、香港大学の法学教授、戴耀廷が「愛と平和で中環を占拠しよう(Occupy Central with Love and Peace)」という運動を始めました。彼に食事に招かれて、昼食をともにしながら、彼は私にそれは理想的すぎると語ったのです。行政長官を民主主義的な選挙で選ぶというのは、香港の人々は受け入れないだろうと。 ――そうした違いは、雨傘革命においてどのように現れましたか? 戴と二人の同僚は、政府に「メッセージを送る」ために、一〇月一日に中心業務地区での平和的なデモを呼びかけました。私たちは、それを意義あるものだとも適切なものだとも思いませんでした。中心業務地区は、大量の人間が占拠するには適していないし、歩道橋から近づくことも困難ですし、週末には人気がなくなってしまいます。そこで、四日前の九月二六日に学民思潮が、政府関連施設の真ん中にあるシビック・スクエア(圓方)を取り囲む、セキュリティ・バリアを突破する役割を果たし、空間を占拠したのです。中にいた学生とともに、すぐに警官によって封鎖されたのですが、私たちによるその行動が、その後に続く運動の引き金となりました。 バリアを突破したことで、他の何人かと一緒に、九月二七日に私は逮捕されました。私たちのうちほとんどはすぐに釈放されたのですが、私は、他の人々よりも長く、四六時間勾留されました。私が勾留されている間、警察は金鐘の学生たちを催涙ガスで攻撃していたのです。これは香港では前例のない仕打ちで、抗議者たちに民主的な態度を吹き込みました。溢れんばかりの途方もない連帯表明があり、学生たちはすぐに、運動に参加している専門家や務め人に数で優るようになりました。そして、香港の分かれた三つの場所を覆い尽くすようになり、それが八〇日間続いたのです。 ――そうした出来事において、大学生が顕著な役割を果たしていましたね。その中でも香港専上学生連合が、主導的な役割を果たしていました。この組織をどのように思いますか。 学生連合は、民主派を長年に渡って支持してきました。一九八〇年代には、中国での一九八九年の学生蜂起に、連帯を表明していました。事務局長の陶君行が北京に行き、警察による鎮圧があった夜に、最後まで天安門広場にいた一人となりました。ですが、学生連合は、議長と書記長が毎年代わるために、行動において連続性があるとは言えません。今日では、八つある大学のうち三大学のみ、七〇〇万人の人口のうちの八万人以下のみが、本当に政治的な学生だと見なされています。植民地時代からの香港大学、一九六三年に設立された沙田区の香港中文大学、一九九九年に教養学部が創設された嶺南大学です。これらはそれぞれ違った特徴を持っています。香港大学の学生新聞は、以前から香港の独立を呼びかけています。これは右派のアイディアです。香港中文大学は左派で、そのキャンパス文化はバークレーのような感じです。嶺南大学は、カルチャラル・スタディーズの牙城で、そこではほとんどの教授が進歩派なのです。三つの中で、もっともラディカルな大学です。その他の大学は政治的に無関心です。 雨傘革命の間には、おおよそ五〇〇から六〇〇名の教員が、学生たちの闘争を支持する署名を行いました。しかし、概して公衆の問題に興味を持っているのは、政治学もしくは、社会科学の教員たちのみです。教員たちのほとんどは、全くもって進歩的ではありません。彼らは、単に研究を書き上げて、アカデミックなキャリアを追及したいだけなのです。これは、社会的により意識的な台湾と比べて、大きな対照をなしています。 ――雨傘革命には、穏健派からラディカル派まで、民主派のようなもっとも穏健な勢力から、オキュパイ・セントラルのようなそうでもない勢力まで、香港専上学生連合のようなよりラディカルな勢力や、学民思潮のようなもっとも闘争的で非妥協的な勢力まで、様々な組織が参加していたと言うことは正確でしょうか?片方に熱血公民のような組織があり、もう一方には社会民主連線のような組織があったと言うことは、そのような分類に叶ったことでしょうか? 私が思うに、民主派とオキュパイ・セントラルの指導力は、理想と行動において、等しく節度を守ったものでした。同様に、学民思潮と学生連合もまた、ラディカルな行動と理想において、似通ったものでした。私が述べたい違いとは、それぞれの状況分析の中にあります。 学民思潮が提案して、学生連合に圓方の掌握を確信させることができたのです。さもなければ、彼らは次の行動に移ることはできなかったでしょう。北京行きは彼らのアイディアで、その線での行動には、学民思潮の半分のメンバーしか賛同しませんでした。さらに、学民思潮の中核となるリーダーたちは、学生連合のラディカルな部分よりも、ラディカルな行動を受け入れつつ予期して、警察に立ち向かって、前線に立つことを好みました。社会民主連線は、理想と行動において、いつでもこの二つの学生組織を支持してきました。 熱血公民は、香港特別行政区基本法の書き換えのようなラディカルな行動について語りますが、それは実際的ではありません。彼らは、どのようにして成し遂げるかも言わずに、香港の独立について要求するだけなのです。彼らのスローガンも一貫したものではありません。警察の暴力に対して反撃することを支持しながら、負傷者、逮捕者なしを行動のゴールに据えるといった具合です。ですので、熱血公民を政治的にどこに分類すれば良いのか、私には本当にわかりません。 ――香港独立を支持する感情は、現在どれほどの強さを持っているのですか? そうした意見は増加しています。ですが、真剣な見込みにおいてではありません。それに対する国際的な支持もありません。とてもラディカルなふりをした要求ですが、表面的で、そのうち消え去るでしょう。 ――香港の運動は、労働組合からどのような支持を受けましたか? ごくわずかなものでした。脱工業化が、労働組合を非常に弱くしたのです。「ロングヘア」として知られている梁國雄が、運動に連帯の意思を表明するために、やって来ることを呼びかけたのですが、ただフリーユニオンが積極的な反応を示しただけでした! ――雨傘革命に対して賃借対照表を作成するのなら、どのようなものを作りますか? それは、より多くの人々が参加するにつれて、香港社会の政治的覚醒を高めるものとなりました。市はこれ以前に、大規模な市民的不服従を経験したことがありませんでした。二〇一二年の反国民教育キャンペーン――それには私も反対していたのですが――の時には、市民的不服従の要素はありませんでした。雨傘革命は、変革のための道具として、より幅広く受け入れられるものとなりました。 私の意見では、二〇年間もの徒労に終わった決まり切ったアジテーションの後で、政治体制を変えることのできる唯一の道として受け入れられたのです。もちろん、政治的な改革としては、私たちは何かを得たわけではありません。政府は譲歩することを拒み、運動は結果として、何も目的を達成することなくして、終わりを迎えました。ですが、私たちは闘いに負けたわけではありません。なぜなら、私たちは、これよりもさらに力強い次のラウンドを始めることができるからです。 ――ですが、昨年と同じ要求を再び繰り返すだけなのですか?それでは行き詰まるだけではないでしょうか?人々は、にべもなく断られた要求を繰り返すことの意味は何だ、と言うではないでしょうか?人々を幻滅させる危険を冒しているのではありませんか? 前回のストライキでは、一万人の学生が参加しました。もし、私たちが、政治的な変革を求めて圧力をかけ続けるなら、次は五万人が参加することでしょう。直接選挙を求める闘いは、香港ではもう一〇年間続いており、それへの支持が衰える気配はありません。それは民衆の要求であり、香港の人々は粘り強いのです。この六月か七月には、非公式の住民投票を呼びかけるつもりです。普通選挙を呼びかけた二〇一四年のオキュパイ・セントラルには、八〇万人の市民が参加しましたが、それよりもさらに巨大かつ戦闘的になることでしょう。 ――現在の学民思潮の強みは何ですか? 私たちには、三〇〇人のメンバーがいます。その三〇%が大学に、七〇%が高校にいます。ジェンダー的なバランスは、六〇%が男性で、四〇%が女性です。やや少なく感じるかもしれませんが、全ての民主派を集めても七〇〇名ほどで、活動的なのはそのうちのわずかです。私たちの仕事は、自分たちの組織的な強さを高めることです。抵抗の構造を拡張し、その周りにネットワークを張り巡らせることです。ちょうど中国共産党がやっているようにね。 私たちにとって、主なターゲットは市の高等学校であり続けています。それこそ、私たちが努力を注ぎ込んでいるところです。なぜなら、若者を味方に付けることができれば、未来において勝利することができるからです。この仕事は全くのところ簡単ではありません。なぜなら香港は試験中心社会であり、高等教育への道が限られているために、学生には集中的な圧力がかかっているからです。わずか二〇%以下の高校生のみが、大学に入学することができます。成功するには、長時間にわたる勉強が必要であり、他のことをする時間もエネルギーもごくわずかしか残されていません。だからこそ、政治的な抑圧が存在するのです。 私たちが活動を始めた頃、学業による控除を除けば、市民運動に支払われるお金などありませんでした。しかし、雨傘革命以来、活動家には逮捕もありうることは知られているし、明らかに両親たちは、そのような危険を冒さないように圧力をかけているのです。高等学校の学生たちの中に、私たちの後継者を探し出すことは深刻な問題です。ですが、簡単に見つけることができるというわけではありません。おそらくは、時が味方になってくれるでしょう。 ――ところで、ご自身の学業はどうですか? 明らかに窮乏していますね。私は数学が大嫌いなので。ですが、二つの大規模な結集の間、ほとんど寝る暇もなく、運動のために働いていたのです。朝の九時から真夜中まで勉学に勤しむ時間なんてなかった。台湾でひまわり学生運動が勃発して、国会を占拠して中国との取引を見直すように迫った時に、私はちょうど試験にとっ捕まっていました。とてもイライラしましたよ。だから、私の成績は貧弱なものです。香港大学にも香港中文大学にも、入学することはできませんでした。だが、香港公開大学には受かりました。八つの大学のうちで、一番下ですね。あそこでは、授業のほとんどを貧弱なパワーポイントでやるのです。 ――あなたが政治的な最前線から退いて以来、社会的な最前線において要求が増加していませんか?香港の途方もなく不平等な社会において、貧しく弱いものが悲惨な生活条件で生きなければならない一方で、億万長者たちはこれ見よがしに巨万の富を見せつけているのでは?政府は、労働時間、住宅問題、年金といった問題と同様に、譲歩しようとしないのではないですか? 香港社会は根深いところで保守的です。下層階級の態度でさえ右派のそれなのです。年金について貧困層からの支持はありません。何であるにせよ「左」は、中国共産党に結びつけて考えられている。特に「左派」的であるとは言えないような、一日八時間の労働といった初歩的な要求でさえも、そうなのです。大衆の抱く信念はこうです。とにかく勤勉に働きさえすれば、成功できるし、金持ちにも成れる。もし、金持ちでないのなら、学校か職場で、良い結果を残せなかったということ。貧困がまるで、構造的な問題ではなく、個人の過ちであるかのように取り扱われているのです。 特に高校生たちは、社会的な問題に関心を寄せていません。彼らは、単にもっと民主主義が欲しいだけなのです。彼らの思考様式はこうです。社会はもっとリベラルになるべきだ。より平等になるのではなくて。概して、もっとも人気のある科目は経済学ですが、そこでは自由市場が常にベストであり、変革は需要曲線のシフト以上のものではないと唱えられているのです。これは別の種類の洗脳だと言えるでしょう。中国共産党のものほど目立たなければ、洗脳だと感知されることもない、そういう種類の洗脳です。学民思潮を建設する唯一の方法は、政治的な要求に集中することです。 ――もし、香港社会がそんなに保守的であるならば、控えめな社会的要求さえも、大衆的な支持を集めることは困難に思えます。それは学民思潮自身のダイナミックさにとって、矛盾と言えるのではないでしょうか?そこでいくつかの質問です。もし達成できたとして、香港特別行政区立法会と香港特別行政区行政長官の民主的な選挙は、いったいどのような違いをもたらすのでしょうか?結局のところ、香港は既に表現の自由や結社の自由、人身保護令状や独立した司法制度など、法の支配の意味するものを、謳歌しているのではありませんか?政治的な民主主義は、疑いもなくそれらのものが腐敗するのを防ぐでしょう。しかし、そうした消極的な効果を除いては、いったいどのような積極的な利益が望めるのでしょうか?もし、民衆が社会的経済的な現状に、完全に満足しているのならば? 香港の社会的な雰囲気は保守的なものです。社会=経済的な問題についていえば、両親たちの関心は、彼らの子どもたちの教育と私有財産に向かっています。しかし、香港は短期間に変わるし、人々も短期間に新しいやり方に順応するのです。この保守的な雰囲気も、もし私たちが学生たちに良い影響を及ぼし、進歩的な政治家が立法会で議席を取るのを助ければ、変わることでしょう。 もし、進歩派がより多くの議席を獲得し、より多くの資源にアクセスできるようになれば(一議席当たり、一〇万香港ドル)、少なくとも彼らは、標準労働時間や国際的な年金基準、最低賃金といった問題を擁護することができるようになるでしょう。現在の制度において、進歩派はほぼ永続的な少数派であり、人々は政治について議論することを諦めています。なぜなら、そのような議論は無益で、立法会の構造的な枠組みに沿ったものだからです。もし、民主派がポリシーの変更を支持すれば、少なくとも段階的に社会の雰囲気も変わっていくことでしょう。私たちの目標は、社会をよりリベラルなものにしたその後で、社会をより平等なものにすることです。 |